<朝鮮通信使400年>行列の中の少年が踊った朝鮮踊り…今も公演中2ちゃんねる:http://news18.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1178954200/
毎年10月になれば日本の岡山県牛窓にある小さな村の神社の前庭では独特の公演が行われる。
2人の少年が顔におしろいを塗って唇に紅、額に赤い十字を描き、7〜8分間、踊る踊りだが、日本伝統
芸術とは全く違う。朝鮮式帽子に似ているかぶりものと雲の柄が入った上着、足首の部分をくくった
ところなど格好はひと目で朝鮮の物だと分かる。
唐子踊りと呼ばれるこの踊りは朝鮮通信使が日本に残した代表的な文化の痕跡の1つだ。12回に
わたって派遣された朝鮮通信使は両国高位官吏、文人たちの間の外交・交流ばかり行ったのではない。
異国から来た大規模使節団の姿は日本の普通の人々に深い印象と文化的衝撃を与えた。彼らは
このときの感興を踊りや祭りなどで表現して今日に伝えている。
◆通信使は文化伝令使=瀬戸内海の主要港だった牛窓は下蒲刈を去った通信使一行が常に休んだり、
宿泊したりした所だ。1624年、通信使の副使だった姜弘重(カン・ホンジュン)は牛窓の風景をこう伝えた。
「(宿所である)本蓮寺に到着した。船から降りた所から寺の前まで並んだ人家だけで数百軒。見物する
男女が垣根のように道端をいっぱいに埋めて…」(東槎録)
400〜500人の通信使一行の中には正使、副使、従事官ら高位官吏もいたが、通訳など雑多な事務を
行う人や侍従はもちろん、各種伎芸を持った人々もいた。総合文化使節団だったわけだ。身分の低い一行は
民家を借りて泊まらなければならなかった。
江戸時代の日本の百姓も所属藩から外に出られない存在なので、数十年に1度来る通信使の行列は
一生に1度の大きな見ものだった。高橋重夫前瀬戸内市教育監は「江戸幕府は普通の人々が通信使一行と
直接接触することを禁止したが、一生に二度と見られない見ものに出会った百姓たちの好奇心を阻むことは
できなかった」と話した。
通信使一行には使臣たちをお世話をしながら旅行での退屈さをしのぐために踊りと歌のできる子供(小童)が
10余人ずついた。まさにこれらが牛窓へ唐子踊りを残したのだ。申維翰(シン・ユハン)の海遊録には「楽工が
太鼓を打って笛を吹き、二人の童子が向かい合って踊りを踊ったら日本人たちが雲のように集まってきた」
という部分がある。騒動になった舞踊を見た現地の人たちがこれをまねた踊りを作って伝えるようになったのだ。
牛窓のほかにも三重県津市の分部神社と鈴鹿市の東玉垣町にも似ている踊りが伝わる。
踊りではないが、岐阜県大垣市に残った朝鮮山車もおもしろい例だ。日本人が祭りするときは山車という
御輿を背負っていくが、大垣市には山車を飾った朝鮮通信使の服飾と旗などが伝わってくる。
>>2以降に続く
2007.05.12 14:26:46
http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=87407&servcode=700§code=700
Author:tokua
FC2ブログへようこそ!